京都日仏協会の起こり
会の起こりは1909年(明治42)年、東京に設立された日仏協会の3番目の支部として設立された日仏協会・京都支部、現在の京都日仏協会の誕生である。 日仏協会・京都支部発足 東京本部から、三か月後の1909年(明治42)7月、仏学会の会員であった京都帝国大学法科大学教授で学長も務めた織田萬が同じ京都帝国大学の岡村司、難波正、三輪恒一郎の三教授の協力を得て、京都における日仏協会支部設立の要請を受けて発起人会を作った。
呼びかけ発起人 織田萬は司法省法学校を卒業し、1896年から1899年(明治29―明治32年)までフランスとドイツに留学し、特にフランス行政法を研究した。この間、パリ滞在の西園寺公爵と親交を結び、30年にパリで万国東洋学会が開催されると、それに出席し、内外の幅広い人物交流の基礎を生成していった。
学者以外の人達にも呼びかけ、京都の政財界のトップクラスの京都商議所会頭、西村治兵衛や、稲畑勝太郎、高島屋の飯田政之助、壬寅会代議士の丹羽圭介なども加わり、ここで協議を重ねていった。 規則、役員構成、会費、運営方法を熟議し、あらかたを取決めた。創立に付き会員を勧誘することも大切なこととなり、百名以上の会員名簿を作成し、上記の人達が発起人となって、第一回総会に向けて案内状を出すはこびとなった。 設立総会は、夏本番の祇園祭の1909年(明治42)7月15日、木屋町三条上ルの京都倶楽部で、第一回発起人会を開いた。 前出の発起人たちは勿論のこと、大森鐘一京都府知事、京都帝国大学文科大学教授で海潮音の訳詩者として知られる上田敏、仏教会の俊才藤島了穂、画家の鹿子木孟郎など28名が集まった。 出席者のうちから、織田萬の恩師でもあり、第一高等中学の校長から京都帝国大学総長を歴任した木下広次を座長に選び、審議を進めることにした。木下は当時の京都の学者のなかでもっとも早い、1875年(明治8)にフランス法学研究のためフランスへ留学している。 まず織田萬から、日仏協会本部、東京よりの支部設立依頼書を音読して、その説明をした。すでに神戸、大阪には設置されていて三番目の支部となるだろう。 席上では、これまで、京都にあった浜岡光哲や西村治兵衛が、中心となっていた1900年設置の日仏協会は、今回の支部設立と同時に解散すること、そして、ここで、新たに、京都支部を設立して活動することが満場一致で承認された。また今後は神戸、大阪、京都が合体して関西とするのが、事業をなす上で有効ではないかという、大森知事の意見が出され、将来の希望として課題となった。 役員は協議の末、次の8名の理事が選出されたうえ、支部規則も1条から8条まで取り決められた。 理事 稲畑勝太郎 飯田政之助(会計係) 西村治兵衛 大森鐘一 織田万 丹羽圭介(庶務係) 難波正 三輪恒一郎 本部理事長辻新次に報告され閑院宮総裁殿下の裁定のうえ、総裁と本部理事長名で各理事に嘱託書が送付された。事務所のある京都商品陳列所で第一回理事が開催され、初代理事長に知事大村鐘一を選出した。
その後の活動
その後、順調に活発な活動が続く。以来もっとも重要な事業は1927年関西日仏学館創設への寄付金を伴う協力(理事長今村新吉・京都大学教授・精神医学))であった。関西日仏学館の設立とともに一層フランス交流が深まっていった。 やがて戦争の暗雲が襲ってくる。戦中の1943年、関西日仏学館に事務所)が移された。それを機に学館の主事、教授であった宮本正清が事務職を任された。この間不幸なことにフランスは敵国となり、日仏友好には厳しい時代であった。関西日仏学館に官憲が入り宮本と仏人オーシュコルヌが拘束され終戦前2か月余り投獄された。その間多くの書類資料が没収された。戦禍の傷跡が癒えないまま理事長今村新吉を失う。
戦後の復帰
敗戦、軍国主義から民主主義へ価値観は一変。激変のなかようやく落ち着いてきた。一人残された宮本正清が呼びかけ人となり再び日仏協会活動を開始した。 京都とパリの友情盟約(1958年)が締結されたこともあって当時の京都市長を会長に選出するに至った。戦後、会も本部から独立し、京都日仏協会と称し活動することになった。
日仏協会
古くは仏学を学ぶ仏学会1886年(明治19)に遡る。主要事業はフランス語を学ぶこと、その後は司法省より補助を受け、仏語で法律を学ぶ法律学校を運営した。 1907年(明治40)、日仏協約が結ばれたことを契機に日仏関係が緊密となり、外交、経済関係も活発になった。学会活動を仏語や仏法を学ぶ事業だけでなくおのずと日仏交流全般に発展させることが明記された。 1909年(明治42)4月、名称も学会から広く協会とし、日仏協会と改称して、かくして1909年4月、日仏協会が東京に設立された。